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<title>幸福ネット</title>
<link>http://www.koufukunet.com/</link>
<description><![CDATA[幸福ネットで幸福になりましょう。皆さんが幸福でありますように。
仏教は究極の幸福を求めている？
仏教は究極の幸福を求めているのでしょうか。
仏教でいう幸福とは、私たちが通常考えている幸福とはかなり違いがあるものの、幸福を求めていることに違いはありません。

もともとお釈迦様が出家する際に四つの苦しみを克服したいと願い、それを超越するために修行の道に入られたといわれています。
その四つの苦しみとは、生老病死の四つをいいます。

仏教ではこの四つの苦しみからの超越を究極の幸福としています。

生きる苦しみ：生きるためには様々な制約があり、思いのままに生きていくことは出来ない。（生まれる苦しみともいわれる）
老いる苦しみ：人は誰でも時間とともに老い、どんなに強健な肉体であったとしても、老化していく苦しみ。
病む苦しみ　：病気になる苦しみは誰にでも経験する可能性があり、今健康でも病む苦しみは潜在的に存在している。
死の苦しみ　：人は必ず死ぬものであり、どんなに長く生きたとしても、またどんなに長く生きたいと願っても、必ず死とともにこの世を去らなければならない。


これら、四つの苦しみの超越というと、なかなかイメージできないかもしれませんが、仏教（仏陀・お釈迦様）は幸福を真剣に求め、真剣に修行し、最終的には目的を達成されたといわれています。]]></description>
<language>ja</language>
<lastBuildDate>2010-08-22T06:27:06+09:00</lastBuildDate>
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<title>仏陀は何を覚った：仏教：幸福ネット</title>
<link>http://www.koufukunet.com/%E4%BB%8F%E6%95%99/0012.html</link>
<description><![CDATA[仏陀は何を覚って仏陀になったのでしょう？　仏陀釈尊は苦しみからの解放を目的にしていたのは事実でしょう。
釈尊が成道して仏陀と呼ばれるようになるまでには、大変な苦行や様々な修行をされたといわれています。
そして、苦行を離れ、中道を行じて仏陀になったということです。

苦行は心の安静や解脱への役に立たないといって、苦行を捨てたとよくいわれていますが、教典には苦行により身体がやせ細っていくにつれて、意識が鮮明になっていくと記載されている部分があります。

仏陀釈尊が滅尽定以外の禅定を体現されていたのは苦行時代のはずですから、苦行が役に立たないものだといったというのは疑問に思います。

仏陀になる以前の苦行は並の苦行ではなく、６年麻麦の行という麻と麦を少量しか食べない修行をされていたということで、凡夫には到底真似のできない苦行だったようです。

そのような仏陀釈尊だからこそ苦行だけでは成道できないといえるのだと思います。
私などは結跏趺坐を数十分するだけで十分苦行に感じてしまいます。

それでは楽な姿勢や座り方で仏陀のような禅定を体現できるのでしょうか？
それは無理なことのはずです。

たとえば仏陀のように７日間禅定をし続けるような場合は、結跏趺坐のような坐法でなければ坐り続けることもできないといわれています。

私にとっては苦行のようなものでも、仏陀釈尊にとって禅定（数時間から数日間坐り続ける）は安楽の法門だということです。

「皆さんの幸福を祈念いたします」

]]></description>
<pubDate>2008-12-21T02:47:02+09:00</pubDate>
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<title>無我ということ：仏教：幸福ネット</title>
<link>http://www.koufukunet.com/%E4%BB%8F%E6%95%99/0011.html</link>
<description><![CDATA[仏教でいう無我とはなんでしょう、「我にあらず」＝「私ではない」「私のものではない」「私ではない」
というような意味でつかわれています。

無我と簡単にいっていますがその真理を覚るには相当の修練が必要になるでしょう。
当然といえば当然です。それを覚るだけで解脱できるといわれているわけですから、凡夫が覚るのは大変なことです。

よく教典で出てくるのは、
問：「肉体は永遠であろうか?」
答：「肉体は永遠ではありません」
問：「では、肉体は思い通りになるものだろうか?」
答：「いいえ、肉体は健康であり続けたいとか、若々しくいたいとどんなに願っても、老化し朽果てるものです」
問：「では、永遠ではなく、思い通りにならない肉体を、私のものだとか、私だと考えることは正しいだろうか？」
答：「いいえ、正しいことではありません」

「その通りです、私達は永遠ではなく、思い通りにもならない肉体を、自分だと考え、自分のものだと執着することによって苦しみを受けるのです」・・・・・


というような問答が繰返し説かれています。

ここでは、肉体であろうと心であろうと変化生滅し、思い通りにならないものは苦しみの原因であることを何度もいわれています。

若い頃はなかなか納得いかない部分も多いと思いますが、仏教的な考え方を勉強しているだけでも少しずつ理解できるようになってくるでしょう。

仏教は真実の安らぎを求めています。

「皆様が幸福でありますように」

]]></description>
<pubDate>2008-12-08T02:15:22+09:00</pubDate>
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<title>仏陀の瞑想：仏教：幸福ネット</title>
<link>http://www.koufukunet.com/%E4%BB%8F%E6%95%99/0010.html</link>
<description><![CDATA[仏陀の瞑想は禅定、あるいは定といわれていました。現代的には瞑想で良いと思います。


参考までに書いてみます。

独りで、結跏趺坐して坐り、身体を真っ直ぐに伸して、念を前方に集中する。（安般念）

世間に対する執着を捨て、執着を離れた心を持って住する。執着から心を浄化する。

悪意と憎しみを捨て、悪意のない心を持って住する。
愛と善意によって悪意から心を浄化する。

怠けと眠気を捨て、怠けと眠気を離れて住する。光きらめく意識を持ち、正念正智にして、怠けと眠気より心を浄化する。

妄想と後悔を捨て、妄想と後悔を離れて住する。内に静かな心があり、妄想と後悔から心を浄化する。

疑念を捨て、疑念を超えて住する。疑念なく、正しい法によって、疑念より心を浄化する。

これら五蓋煩悩が捨てられることによって、悦が生じる。悦あるものには、喜びが生じる。喜びの心あるものには、身軽安となる。軽安な身は、楽を得る。楽ある心は三昧に入る。

このように、欲望を去り、不善の法を離れて、思惟と考察がある(有尋、有伺)、欲の世界からの遠離より生ずる喜と楽とのある初禅に達して住する。

さらに、思惟、考察を静止して、内に確信あって、心専一となり、思惟もなく、考察もなくなり、三昧より生ずる喜と楽とのある第二禅に達して住する。

さらに、喜をも、離貪をも超え、捨心となって住し、正念正智あり、楽を身に受けて、まさしくこれが聖者の説いた「捨心であり、正念であり、楽住である」と、第三禅に達して住する。

さらに、楽を捨て、苦を捨て、また既に喜びと憂悩を離れているので、不苦不楽にして、捨心、正念、の清浄となる第四禅に達して住する。

「皆様が本当の幸福に安らぐことができますように」
]]></description>
<pubDate>2008-12-03T00:59:40+09:00</pubDate>
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<title>仏教の神々：仏教：幸福ネット</title>
<link>http://www.koufukunet.com/%E4%BB%8F%E6%95%99/0009.html</link>
<description><![CDATA[仏教では神々ですら輪廻からは解放されていないと説いています。

仏教でいう神は天界に存在しており、業（カルマ）が尽きると他の世界に転生するといわれています。

しかし、仏教的にいうと教典を読んだだけの知識（経験していないこと、証明のできないこと）を人に説いてはいけないはずなんですが、ほとんどの人はそれを観ることはできないでしょう。
（私も観ることができません）

ただ、仏教では仏陀（阿羅漢）は神々を超越していると教典でいっていますので、当時の方々は観ることができたのでしょうか？

他宗教の教えでは神に祈ったりすることがありますが、基本的に仏教は祈りという行為は否定的にとらえているようです。
（現代仏教は少し違います）

仏教の根底には物事をありのままに見て認めて、自らの内面も外面も平等にとらえて心を解放する訓練をしています。

観念を増やすのではなく、観念を放していくような修行です。
最後は無であり空であり滅尽して、純粋で透明な水のような心境を目指します。

「皆様が真の幸福に安らぐことができますように」]]></description>
<pubDate>2008-12-01T19:08:28+09:00</pubDate>
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<title>四苦八苦：仏教：幸福ネット</title>
<link>http://www.koufukunet.com/%E4%BB%8F%E6%95%99/0008.html</link>
<description><![CDATA[四苦八苦という言葉は仏教の言葉で四つの苦しみと八つの苦しみの教えです。もちろんそれを解脱する教えです。

四つの苦しみとは、生、老、病、死という四つをいいます。
生苦：生まれる苦しみ、生きる上での苦しみ全てです。
老苦：老いる苦しみです。
病苦：病気の苦しみ。
死苦：死ぬ苦しみ。

これらの苦しみ（恐怖）は誰でも納得できると思います。

怨憎会苦：憎い人や会いたくない人に会う苦しみ。
愛別離苦：愛する者と分かれる苦しみ。
求不得苦：求めて燃えることができない苦しみ。
五陰盛苦：存在すること自体の苦しみ。

これらは、誰でも避けようとしても避けることができない苦しみ、苦悩、恐怖だといわれています。

そして、仏教のすごいところはこれらの苦しみから解放される、つまり解脱することを教えていることです。

仏教の開祖である釈尊は四つの苦しみから逃れる方法を探求するために修行の道に入った方で、苦しみを消滅させる方法を体現されたのです。

そして、それを実践するためには、先ず、苦を知ることから始めるように説かれています。

苦を知り、それを超越しましょう。

「皆様が幸福でありますように」]]></description>
<pubDate>2008-12-01T02:15:51+09:00</pubDate>
</item>

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<title>無常　仏教の教え：仏教：幸福ネット</title>
<link>http://www.koufukunet.com/%E4%BB%8F%E6%95%99/0007.html</link>
<description><![CDATA[無常は仏教の根本的な教えの一つです。これが分るようになると人生の苦悩は半減するはずです。

仏教では一切を無常であると観なさい。と教えていますが、無常というのは変化生滅するもの一切に当てはまる考え（真理）です。

その中でも特に五蘊（色、受、想、行、識：身体、感覚、想念、思考、記憶）について無常であると観なさい。と教えています。

仏教でいう観るとは、真理を観察すること。細部まで観察することです。


肉体は無常であると観なさい。
肉体は老化し病気になり死滅するものであると観なさい。ということです。

私はこの瞑想が好きになれませんでした、ですが、教典を読んでいるうちにどうしても反論できなくなってしまうんです。
それは、無常ということが真理だと感じてしまったからです。
もちろん体現したとか、覚ったとかいうわけではなく、ただ理解して納得しただけにすぎません。

それでも、若い頃は死に対する恐怖は大きいものでした。
でも、無常という考えは私達に恐怖を与えるための教えではありません。

現実をありのままに観察しなさいと教えているものです。

現実をありのままに観たならば、永遠に生き続けるものは存在しません。
そういう結論が出てしまったら、肉体は無常であるという教えに反論できません。


教典ではさらに、感覚、想念、思考、記憶（受想行識）も無常であると観るようにいわれています。

このように観ることが、正しいものの見方であり、覚りへと至る考え方だといっています。


正しく観るものは必ず一切に対する執着を離れる。
執着を離れると、解脱する。といわれています。


話が長くなりましたが、
仏教では、この正しく観ることで、私達の苦悩が消滅するといっています。

「皆さんが幸福でありますように」
]]></description>
<pubDate>2008-11-30T04:18:06+09:00</pubDate>
</item>

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<title>仏教で苦しみをなくす：仏教：幸福ネット</title>
<link>http://www.koufukunet.com/%E4%BB%8F%E6%95%99/0006.html</link>
<description><![CDATA[仏教で苦しみはなくすことができるのでしょうか？
私の解釈ではできるんだと思っています。私ができているという意味ではありません。

元々、仏教の始まりは四つの苦しみの超越に目的があったとされていますから、苦しみをなくすことができるはずです。

もっとも仏教では私たちに苦しみを与えている現象そのものがなくなるとはいっておらず、自分自身が変わること、特に精神的に飛躍的に成長することによって、苦しみを感じていた現象にも苦しみを感じなくなってしまう境地になるようです。


それは、すばらしい境地といえますが、実現するのはかなり困難なことでしょう。
私も瞑想したり精神修養したりと試行錯誤の連続ともいえます。

「シンプル・イズ・ベスト」単純明快、簡単なものにこそ深遠な意味が含まれていることが多々ありますね。


とにかく仏教的な人生を送ることも非常に興味深く思います。
私は仏教徒ですから、仏陀釈尊の弟子の一人といいたいですね。


「みなさんが幸福でありますように」

]]></description>
<pubDate>2008-11-26T00:41:20+09:00</pubDate>
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<title>仏教　縁起の法：仏教：幸福ネット</title>
<link>http://www.koufukunet.com/%E4%BB%8F%E6%95%99/0005.html</link>
<description><![CDATA[仏教で言われる真理とは、どのようなものでしょうか？

私はこう思います。仏教の真理は縁起の法によって明らかになっていると考えます。
縁起、縁滅と言われる事象の捉え方によって仏教の真理が少しでも理解できると思います。

ただ、仏教でいう縁起の法は私たちが日常使っている縁起が良いとか、縁起が悪いとか言う時の縁起とは少し意味が違っています。
本来は同じ意味でしょうが、若干違和感を感じます。

仏教では縁によって生じ、縁が滅することによって事象も滅すると考えます。

]]></description>
<pubDate>2008-10-21T13:04:13+09:00</pubDate>
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<item>
<title>仏教の覚り：仏教：幸福ネット</title>
<link>http://www.koufukunet.com/%E4%BB%8F%E6%95%99/0004.html</link>
<description><![CDATA[仏教において覚りを開くとは、苦の解放、超越を意味する言葉といえるでしょう。
これは、学問的な論証ではなく仏教の発祥からの思想といえることだと思います。

難しいことを考えるより、そもそも仏教がどうして始ったのかを考えることで理解できると考えています。

仏陀釈尊といえどももともとは普通の（王族の嫡子ですが）人であり、様々な苦悩を味わい、あるいは見聞してその苦からの解放を願い求め出家したと言われていることからも、仏教の目的は苦からの解放あるいは超越とでもいう状態を目指していることになります。

私が解説できるようなものではありませんが、仏教の根本的教えの中に
四つの苦しみ（四苦）の教え。
無常無我の教え。等の先ず苦しみを理解する教えから始まっていることがほとんどです。

]]></description>
<pubDate>2008-10-19T22:47:12+09:00</pubDate>
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<title>思い通りにはならない：仏教：幸福ネット</title>
<link>http://www.koufukunet.com/%E4%BB%8F%E6%95%99/0003.html</link>
<description><![CDATA[思い通りにならないものは「自分ではない」「自分のものではない」という教えが仏教の根本にあります。

そして、この世に思い通りになるものは一つも有り得ないと教えています。

私自身一時期はこの教えに反論を持っていましたが、仏教を学んでいるうちに真実で正しいことだと理解できました。

仏教教典によく出てくる話で
「この自分の肉体を永遠に存続できるだろうか？」「いいえ、できないでしょう」
「永遠に生きたいと願ったとしてもそれができないこの肉体を自分自身だと言えるだろうか?」「いいえ、自分自身だとは言えないでしょう」
「自分自身ではなく、思い通りにならない肉体を自分のものだと言えるだろうか?」「いいえ、自分のものだとは言えないでしょう」

「縁って、この肉体は無我（非我）であると説くのである」

「思い通りにならないものを自分だと錯覚して苦しみを受けているのです」

とても深い深遠な教えですね、仏教ではこの無我の教えの前後に定型的な「無常」「苦」「空」という教えが連続的に説かれています。

「皆さんの幸福のために、祈念します」
]]></description>
<pubDate>2008-10-11T12:49:13+09:00</pubDate>
</item>

<item>
<title>仏教の覚り：仏教：幸福ネット</title>
<link>http://www.koufukunet.com/%E4%BB%8F%E6%95%99/0002.html</link>
<description><![CDATA[仏教の覚りは、四つの苦しみについての考察と、四つの真理（四聖諦）についての考察によって得られるかもしれません。

四つの真理とは、
苦諦：苦しみ、苦悩を知ること、四つの苦しみ（四苦）を知ること。

集諦：苦の生起を知ること。

滅諦：苦の滅を知ること。

道諦：苦を滅する方法を知ること。


実際書こうとするとかなり複雑で深遠な教えなのでなかなかうまく表現できませんね。
ただ、この四つの真理（四聖諦）を覚るには、ヴィパッサナー瞑想が必要だと思います。

私は、ヴィパッサナー瞑想の本道とは無縁ですが、実際ヴィパッサナーなしには、苦の生起や、苦の消滅等を如実に知ることはできないはずですから、ヴィパッサナーが智慧の開発法と言われる所以はあると思います。

苦しみを知り、苦しみの発生を知り、苦しみの消滅を知り、苦しみを消滅させる方法を知る。この四つの覚知によって覚りの智慧を得ることができるようです。

]]></description>
<pubDate>2008-10-10T02:01:01+09:00</pubDate>
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<title>仏教で幸福になる：仏教：幸福ネット</title>
<link>http://www.koufukunet.com/%E4%BB%8F%E6%95%99/0001.html</link>
<description><![CDATA[仏教の幸福とは、仏陀釈尊が出家されるときの求めから推察できると思います。

仏教では、四苦（四つの苦しみ）からの解放（解脱）を求めて出家された、仏陀釈尊（当時はゴータマ・シッダールタ）の欲求から始っていますので。
当然、四つの苦しみからの解放が仏教の幸福ということになります。

四つの苦しみとは、
生苦：生れる苦しみ、生きる苦しみ。
人は生れ、生きているだけで苦しみを経験するものです。

老苦：老いる苦しみ、変化する苦しみ。
生きているものは必ず老います、永遠に若くいることはできません。
時間とともにあらゆることが変化します。

病苦：病む苦しみ。
生きているものはいつ病気になるか分りません。
健康法等が流行ったりしますが、人が健康であり続けたいと願っている証拠です。
しかし、健康であり続けられる保証はどこにもないのです。それが人生ですから。

死苦：死ぬ苦しみ。
生きているものは必ず死にます。永遠の命は存在しないでしょう。
生きるものの宿命として、死は必ず訪れます。


これらが、仏教において解決されるべき四つの苦しみといわれています。
そして、この四つの苦しみからの解放を解脱（成仏）と言っているようです。
]]></description>
<pubDate>2008-10-06T02:42:11+09:00</pubDate>
</item>

<item>
<title>占いと運命：占い：幸福ネット</title>
<link>http://www.koufukunet.com/%E5%8D%A0%E3%81%84/0003.html</link>
<description><![CDATA[占いと運命ってよく口にしたり聞いたりしますが、よくわかりませんよね。
これを明確に答えられる人はすごい人だと思います。

占いは何かの事象によって、違う何かを予測するような統計学的なものでしょうが、運命というのがあるのかないのか、微妙なところです。

仏教的には「縁によって生じる」という、縁起の法に基づいて考えるように教えていますが、運命というと若干収まりきれないようにも思います。

釈尊の高弟にも（縁によって：運命的に）盗賊に殺された方がいます。
これは、釈尊の二大弟子の一人の終焉で、教典に記されています。

ただ、この結果は事前に解っていたこととも記されています。
これは、本人も釈尊も予測していて、それを受け入れたように書かれています。

このような偉大な方々の心理を私には説明できませんが、縁によって生じるものを、神通等で変えてはいけないという指導をされていたようです。

私が読む限りでは、そこに、変えることができる力があるが、それを変えてはいけないんだ。
と書かれています。

そのような神通については他にも多々記載されているので、私は実際あったことだろうと思っています。

運命的に決まっている事柄があり、しかもそれを変更する力も存在している。
だけど、その事象（縁の結実）を変更しても、縁がなくならない限り先延ばしいているだけのことだ。
といわれているように感じます。

私の知識と経験では少し難しすぎる内容になってしまいました。

「皆様の幸福を祈念いたします」]]></description>
<pubDate>2008-12-05T01:28:29+09:00</pubDate>
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<item>
<title>占いと運命学：占い：幸福ネット</title>
<link>http://www.koufukunet.com/%E5%8D%A0%E3%81%84/0002.html</link>
<description><![CDATA[占いと運命学はやっぱり違うんでしょうね、運命学は人の運命を読み解く統計学らしいです。

前回、過去に占ってもらって人生全般で当っていると書きましたが、そのときの先生？が言っていた言葉を思い出しました、その先生曰く「私のは占いではなくて、運命学だ」とよくいっていたように記憶しています。

「当って当り前で運命学は先人達の統計学に基づいて体系付けられたものだからです」
「占いと称するものの中には全く根拠のないものがあり、そういうものと運命学を一緒にしないように」
「運命学は人の運命を予測して好くないことは改善していく方法論も体系化されています」
というようなことをよくいわれていたと思います。

実際、その先生の運命鑑定は驚くほど正確に未来の人生を予測していました。
そういっても、その人の受止め方でしょうが、私の場合は本当にビックリするくらい言当てられています。

だからといって、今から師事するつもりもありませんけど・・・

やっぱり運命を正確に予測できてもその改善法が誰にでも実行できないものではあまり意味もないような気がしますがどうでしょうか。

「皆さんが幸せな道を進むことができますように」

]]></description>
<pubDate>2008-11-28T02:55:09+09:00</pubDate>
</item>

<item>
<title>占いは信じられる：占い：幸福ネット</title>
<link>http://www.koufukunet.com/%E5%8D%A0%E3%81%84/0001.html</link>
<description><![CDATA[貴方は占いを信じますか？

答えは千差万別でしょう。私も信じることもあれば全く信じないときもあります。

初期仏教においては占い等の占術は禁止されており、そのような生業は修行者はできない決まりになっていました。
でも、釈尊自信は様々な占術を体得されていたようです。それを実践していた記述も見受けられます。
出典を明確にとかいわないでくださいね、私の記憶にもとづいて書いていきます。

ただし、占いにもとても正確な運命を予測できるものがあることも事実です。
私も若い頃ある人に運命判断をしてもらったことがあるんですが、現在まで数十年たちますが非常に正確に運命を言い当てられています。

良いことも悪いことも全般にわたって当たっています。

ということは運命は生まれたときから決まっている可能性があるということもいえるんでしょうね。
そのように断言している人もいるくらいですから、何らかの確証を持っていっているんでしょう。

それでも私は、自分の人生は自分で造っていけることを信じています。

「幸福の言葉に誘われて自分の心を旅しています」

]]></description>
<pubDate>2008-11-24T22:25:15+09:00</pubDate>
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<item>
<title>祈りで幸せになれる：幸福：幸福ネット</title>
<link>http://www.koufukunet.com/%E5%B9%B8%E7%A6%8F/0002.html</link>
<description><![CDATA[祈りで幸せになるというと、なかなか信じられないかもしれませんが、私の経験から誰でも祈りの効果は得られるだろうと感じています。
祈りで潜在意識へ自分の願いをインプットすることで、その願いは自然に実現します。
祈るときは自分の願いを明確にして、自分と他人のために平等に祈ります。
それが、潜在意識へ届くように感じれば、後は潜在意識へすべてを任せてしまいます。
私の場合は、潜在意識を人格化して、その対象に祈るようにしています。

祈りの習慣を持つことで、私自身の人生が変わったと確信しています。
自分のことだけではなく、他人の幸福も祈れるようになってくると、人格が変わってくるはずです。

祈りのときは何時でも良いと思います。
自分が祈りたいと感じるときが一番良いタイミングだと考えて良いでしょう。
ただ、朝晩の祈りは習慣的にできれば、さらに良いと思います。
日常的に護られていると感じるようになると、本当に不思議なことを経験し始めるでしょう。
（あり得ないことを経験するということではなく、思いがけない幸運が訪れるということです）
偶然と思えるような幸運が日常的に経験できるようになるかもしれません。


先ず、毎日護られていることを感謝しましょう。
次に、今からも護られることを祈りましょう。
次に、自分の願いを祈りましょう。
最後に、もう一度感謝の気持ちを祈りましょう。
（これは、願いが叶えられたことや叶えられつつあることを感謝します）

「ありがとうございます」という言葉が大切なキーワードです。
自分で祈りが届いたと感じることができれば、かなりの効果が期待できます。
・言葉は自分でこれが良いと感じる言葉遣いで良いでしょう。
・通常は敬語を使う方が祈りの効果があるように感じると思います。
・自分のためだけに祈るのではなく、自分の周囲の人たちも含めて幸福を祈る。
・人への恨みや憎しみを祈ることは絶対にしない。
・人間関係の場合はすべてがよい方向へ進むよう、自分も他人も一番善い結果が現れるよう祈る。

他人の幸福を祈るようにすることで、自分自身の幸福が実現する可能性が高まります。
潜在意識では、自分も他人も区別されないからだといわれています。
自分の幸福を望むのであれば、他人の幸福を祈りましょう。


日常的に祈る習慣を持つことは良いことだと感じています。
何より、人のために祈れるようになると、自分の心が大きくなったように感じ、自信が付いてきます。
自惚れないように注意し、謙虚な気持ちで祈り続けましょう。]]></description>
<pubDate>2010-08-22T06:06:42+09:00</pubDate>
</item>

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<title>幸福になりたい：幸福：幸福ネット</title>
<link>http://www.koufukunet.com/%E5%B9%B8%E7%A6%8F/0001.html</link>
<description><![CDATA[幸福になる法則を探求してみましょう。
どこまでできるかは分りませんが、皆で幸福になるための方法を考えています。

私は仏教が好きで、仏陀の教えを実践できるようになりたいと思い続けています。

根本仏教の教えや実践的な内容は本当に素晴しいと感じています。

無常、苦、空、非我という教えなどは、まさに完璧といえる教えだと思います。
それを覚れるかといえば難しいですが、多少なりとも理解できるようになりつつあると思っています。

幸福という言葉はあまり仏教的ではないようにも思いますが、今の私にはやっぱり幸福な人生は捨てきれない執着の対象です。
そうです、仏教では幸福になりたいという思いすら執着の一つに数えられます。
仏教的には現世での真の幸福はあり得ないという考え方です、それは、移り変わる（無常）ものは苦であるという考え方をするからです。
これが根本仏教的な考え方であると、私は理解しています。

いずれは仏教の根本を悟りたいと思い続けていますが、まだまだ煩悩の中に生きていると言うことでしょうか。
これからも仏教を中心に、本当の幸福を実現する方法を探求していきたいです。]]></description>
<pubDate>2009-01-02T07:17:17+09:00</pubDate>
</item>

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<title>手相を変えるには：手相：幸福ネット</title>
<link>http://www.koufukunet.com/%E6%89%8B%E7%9B%B8/0004.html</link>
<description><![CDATA[手相を変えるには、手相を意識して理想の線を想像します。
そして、想像の線を爪で擦ったり、その線が強調されるような手の動き（運動）をします。

手相を変えることに興味を持っている人は、あまり自分の手相に納得していないでしょうが、日常はそんなことは忘れるようにしましょう。

思い出したときは「そのうち変わるさ」「手相は変わるんだ」「良くなって行く」というように都合の良いことを考えましょう。

どうせ同じ時間何かを考えているなら、良いことを考えて自分自身に喜びを与えてください。

人は必ず変化します。良い方にも悪い方にも毎日変わりつつあります。
自分で良い方に変わっていけるように、心を誘導する習慣を持ちましょう。

必ず良い方に変わることができます。今日より明日の方が良くなっているように、心を良い方向に向けておきましょう。

内面が変われば外側もそれに伴って変化していくはずですから、多少のことは受け流して、未来の良いことを想像し続けましょう。

「皆さんがいつでも幸福に包まれますように」]]></description>
<pubDate>2008-12-12T00:15:16+09:00</pubDate>
</item>

<item>
<title>手相は変わる：手相：幸福ネット</title>
<link>http://www.koufukunet.com/%E6%89%8B%E7%9B%B8/0003.html</link>
<description><![CDATA[手相は変わる。手相が変わるというのはそれほど珍しいことではないようです。
ある人の体験談ですが、若い頃には生命線が薄くほとんどないような状態だった人が、年を経るに従って濃くしっかりした線に変わったという人もいるようです。

手相改善法として、合掌するようにして手を擦り合わせるようにしていると線が濃くなって元気の良い線になってくるそうです。

また、爪で線をかくようにしていると実際に線が書いている通りに変化してくるという話もあります。

手相は変わると信じて、手相を変える方法を実行することでいわゆる良い手相に変えることができるということです。
私はあまり手相そのものの運命判断は信じていませんが、その人の体調や心の状態が手相に表れていても不思議ではありません。

自分の状態が手相に表れているから、ある程度の運命判断が出来るとしたら、自分を変えることで当然手相も変わるということですよね。
結局、手相は変わるということになりますね。

なんにしても、手相の線とは日々変化しているものでそのときの体調や精神状態を調べる目安にはなるでしょうが、将来的な運命を予測する材料に本当になるかはちょっと疑問です。

でも、私も手相は気になります。なので気がつくと九字護身法を実行するようにしています。
そして、手相を意識して手の体操？を実行していると実際に手相は変わってくるはずです。

「幸福の道を進みましょう。心安らかに、穏やかに、粛々と進みましょう」]]></description>
<pubDate>2008-11-24T23:13:02+09:00</pubDate>
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<title>手相による運命判断：手相：幸福ネット</title>
<link>http://www.koufukunet.com/%E6%89%8B%E7%9B%B8/0002.html</link>
<description><![CDATA[手相による運命判断はどこまで信用できるのでしょうか?
私はあまり信用していないのですが、気になるときはあります。

そういうことが気になる時って悩んでいるようなときでしょうからなおさら注意が必要と思います。

健康面ではかなり参考にできると思いますが、運命となるといったいどんなモンでしょう。
手相で本当に運命が分るんでしょうか？

それなら、手相を改善する手の運動をした方が良いような気がします。
私は九字護身法を中心に運動的にやってますが、体調不良の時は指が硬くなっていたり結構手に反映しています。
そして、九字を繰返していると段々柔らかくなってきます。
終ってしばらくすると元に戻っていまいますが、間隔を開けて繰返していると。
すぐに柔らかくなるようになってきます。

色々試してみましょう。

]]></description>
<pubDate>2008-10-31T00:03:07+09:00</pubDate>
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<title>手相を変える：手相：幸福ネット</title>
<link>http://www.koufukunet.com/%E6%89%8B%E7%9B%B8/0001.html</link>
<description><![CDATA[手相を変える気満々だった時期があって、手相を変える本を読んだことがあります。
当時は手相を変えるというような書籍はあまりなかったと記憶していますが、その書籍はかなり細かい手の運動法まで書かれていて、手相を変える方法を結構詳しく解説してましたが、今は題名すら覚えていません。

特に印象的な手相を変える方法（手相改善法）は、親指と小指の相対運動。
簡単に言うと親指と小指の指先を繰返し合わせる運動です。
たとえるなら、親指と小指で拍手をしているようなイメージでしょうか、その運動で生命線と運命線が強化されます。
当時は究極の手相を変える方法だと考えていたものです。
今でも手の運動以上に手相を変える方法は内容に感じていますが、内容が思い出せなくなっています。

とりあえず、親指と人差し指から小指までをグッと合わせて開くという手の運動をしているだけで、手相は変わってくるということです。
しかも、良い手相に変わってくるし、健康にも良いように感じます。

というのも、体調の悪いときは手指の動きも悪くなっていて、手指の運動を繰り返しているとだんだん柔らかくなってくるのを感じられるからです。
数分の訓練で手指の柔らかさは格段に変わってきます。（手相が変わってくるのは分かりません）


とにかく、今流行っている。手相を書くよりも効果的かな？と私は思います。
何故って、手の運動をしているので全身に影響があっても不思議ではないからです。]]></description>
<pubDate>2008-10-30T00:03:02+09:00</pubDate>
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